2004年8月14日

My Hometown and BASE

Category : 2004 Diary

(西)東京日記のCocoさんの記事 My Japanese Hometownが懐かしかったので、エントリーを作りました。

親父は、昔福岡にあった米軍の基地で働いていました。
基地の事は、地元では「ベース」と呼んでいました。今でもそうなのでしょうか?
基地の外にも、当然米国兵用の住宅も作られ、これは「ハウス」と読んでいました。

そんなせいか、自分の子供時代にはちょっとした思い出があります。

【追記】
(西)東京日記Cocoさんのサイトは、なくなっている模様です。





車:
親父が仕事で乗っていた車は、左ハンドルのでっかいシボレーのV8のワゴン車か、フォードのバンでした。
V8のワゴン車は、ただ駄々広いだけじゃなくで、後ろの窓ガラスが電動で下がると言う自分の家にも車がなかった時代に驚きの車でした。
フォードのバンは、今でこそフルバンと呼ばれているもので、アメリカにいた当時に同じタイプのものを何回か見ました。まだ走っているんだと言う印象でした。
いつか親父に写真を撮って送ってやろうと思っていましたが・・・・

フライドチキン、ハンバーガー、アップルパイ:
今でこそ、一般化した色々な食べ物ですが当時はまだ、マクドナルドなどがなかった(少なくとも日本には)時代で、時々親父が持って帰ってきていたフライドチキン、ハンバーガー、アップルパイの香りは、日本のその他で経験する事の出来ないものでした。
特にハンバーガーは、カーニバル(後述)の時にベース内でできたてのものを食べる事が最高のご馳走でした。辛くないマスタード等は、当時はありませんでした。
ケチャップの赤とマスタードの黄色は、何か外国を思わせるような派手な色でした。

カーニバル:
年に一回、アメリカの独立記念日はカーニバルと呼ばれ、一般人がベース内に入ることの出来る唯一の日で、上のような食べものや、最後には花火が打ち上げられ、花火と言えば、「ベースの花火大会」というイメージが子供の頃に出来上がって以来、なぜか他の花火大会を心から楽しんだ事がありません。
また、その日までの恒例のイベントとして、72~96時間連続の野球の試合なども米兵たちによって行われていました。ボールがあたると人がドラム缶の中に落ちるのもココで見ていました。言葉はわからなかったけど、相当わくわくして見ていました。
ある年には、昔西戸崎にあったベースに連れて行ってもらい、飛行場に展示されていた輸送機の中に入った思い出があります。親父は、確か仕事中だったと思います。

ハウス:
外国人用に設計されたハウスと呼ばれる家は、当時普通の家が板張りの壁でこげ茶色だったのに比べ、ベージュか白で、はっきりと区別が出来ました。特別高級な家ということではありませんでした。
小さい頃はこれらのハウスにはみな米兵が住んでいましたが、基地の規模が小さくなるに連れてこれらの家に日本人が住むようになりました。実際自分の実家もこのハウスでした。高い天井と、同じ6畳でも、和室に改造する時、標準の畳があわず、やや大きかったと記憶しています。
そして大きな違いはトイレでした。まだ水洗のトイレが珍しかった時代に、しかも洋式! 突然のしゃがんだウンチングスタイルから座って事を済ませなくてはならないのは、大変大きな違いで、最初はなかなか用を足す事が出来ませんでした(笑)

床屋:
散髪も、基地の中には子供はいつでも親父と一緒に入れたので、中のほうが安いと言う事で、いつもベースの中で散髪してもらっていました。ベースのゲートを親父のパス一つで、MPの兵隊に「OK」と言われながら中に入っていくのはなんとなく気持ちの良いものでした。近くに自衛隊の基地の入り口もあったのですが、こちらは日本人の自衛官がゲートに立っていましたが、なんとなくベースの方がかっこいいと子供心に思っていたみたいです。実際ベトナム戦争前期までは、米国基地の影響は大きく、自衛隊は小さな存在でした。
床屋も、白い兵舎の一角にある場所だったのですが、白い建物に入って行くのはこれもなんとなく嬉しいものでした。待っている時の椅子も殺風景ででかく、トイレも、普通日本では見る事の出来ない洋式で、いわゆるすべての風景が非日常であった記憶があります。

基地の町の風景:
こうしてベースの中は外の日本とは、完全に違った世界で成り立っていたのですが、ベースの外も、普通の日本の町とは違った風景がありました。一番は、やはり英語の看板です。特に基地ゲート近くの商店は、基地内の人を目当てにした店などが多く集まって英語の看板が多く見られました。
ブリキの鉄板にペンキを塗ったもの等のシンプルな看板が多く、ペイントがはげかかっている看板も結構ありました。看板自体はケバケバしたような色気のものは少なく、白と色あせた紺か赤の色だった記憶があります。今思うと、Bar等が集中していた歓楽街的エリアは、もう一つあるゲート近くに集中していたと思います。
ベトナム戦争が始まった頃は、兵隊の皆はJack Daniel'sを飲んでいたのに戦争の最後の方は、安いウィスキーしか飲めなかったと親父が言っていたのを覚えています。
当時から、海兵隊(Marine)たちは、兵隊たちにも特別視されていたようで、店の中に海兵隊員がいると、「Marineがいるぜ」等といわれてちょっと恐れられていたらしいです。これも、子供心に、”海兵隊の人たちは上陸作戦など、一番危険な場所に行かされるので、荒くれ男たちが多いのだろうな”等と思っていました。

福生と沖縄:
そういう意味で、米軍基地のある町の基地の周辺の風景は、自分にとってある意味懐かしさがあります。
昔、沖縄に出張に行った時に一部の町の光景が懐かしく感じました。
あと、東京に以前多摩地区に住んでいた事もあり、福生の基地の回りも通った事があります。
確か、カーニバルの日に基地の中に入った記憶もあったかな?

福岡の基地は、随分前になくなっていまは、航空自衛隊の一部と春日公園、学校、住宅地になっています。
自分の実家は、増築をしましたが、いまだに「ハウス」が元になった家です。


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